選書紹介 『残酷人生論』/ 池田晶子(呪文言語版)
※呪文言語版とは、著者の文体や思考に触れたことで、その影響を受けて自分なのか自分ではないのかよく分からない感覚と文体で書かれた不思議なコラムとなっています(笑)。
何を言っているのか意味不明という方は、「日常言語版」をお読みください!
本日ご紹介するのは
『14歳からの哲学』で有名な池田晶子さんのご著書です。
実はこれ、弊社スタッフのよっしーこと吉田くんがオススメしてくれた本です。
くまちゃん好きそうだと。
そのタイトルが『残酷人生論』。
え?ちょっと待って?ザンコクジンセイ論だって…?
わたくし、今の今までジンセイをザンコクだなんて結論づけたこと1度もないのだけれども。
そうです。近年の私が常々思っているのは、ジンセイとは、個々人が主演兼監督を務める壮大な茶番劇だってことです。笑
ただ誤解のない様にちょっとだけ補足させて頂くと、茶番だろうとなんだろうと、それは正真正銘リアルで愛すべき事態である、ということは急いで付け足しはしたいのですが。
さぁこんな風にジンセイを捉えてみても、かなり楽しめちゃうジンセイって、なんとオモロいことか。
しかしこの本。
そんな愉快で痛快で爽快で、明快で豪快で壮快たり得るジンセイを何たる理由でザンコクと形容するに至ったのか?
「なぜ人生は残酷なのか?」
そんな小さな疑問と大きな好奇心が頭の片隅に泡のように浮かんではまた消えていく。
すぐに姿形を変えて生死を繰り返すその小さな泡沫を、胸の中で「問い」という名状しがたい結晶に型取りながら、本書を通じてその解を探る旅にでることにした。
そして旅の最中に上記の問いとは別に、もう1つ大きな関心事に出会った。
それが「この本は一体誰に向けて書かれているのか?」という問いである。
以下、独断と偏見に塗れた「私」なりの解と読了後の感想を記している。
なぜ人生は残酷なのか?
残酷人生論。
結論から述べると、本書を最後まで読んでも、なぜ「残酷」と命名したのかは結局分からなかった。事実、著者ですら「残酷」という形容詞を目障りだと本書の最終盤に述べている始末である。
しかしながら、この本全体で述べられていたこと、そこに通底するメッセージを掴もうとすると浮き上がってくるものがある。それは、筆者自身が筆者自身であることをたらしめる「何か」を存分に表現することで、
「私として生きること」や「幸福に生きること」とはこんな感じ
という姿を、言葉と感情を用いて臆することなく晒し続けることであるように感じられた。
実はタイトルにある「残酷」という言葉には大した意味が無いのかもしれない。
いや筆者の言葉を借りるなら、残酷はそれ自体がその残酷である限りにおいては、残酷なのである。
あ~。ここだけ切り取ってしもうたら何を言ってるかの分からないな(涙)。
しかし著者は非常に論理的に私たちが日常当たり前だと思っている事柄に対して、まさに「疑う」という態度を通して物事を考え、そして筆者だけのユニークなその思考の流れや源流をふんだんに盛り込んでくれているおかげで、まさに魂の叫びとなって私たちに届くものがある。
「当たり前」や「常識」を外から覗いてみたい方や「生きるとは何か」、「幸福とは何か」ということを追究してみたい方は、ぜひ本書を手にとって味読していただきたい。そうすることで、著者から発せられる「何か」があなたの中にズルズルと入り込み、論理だけでは決して到達しようのない非常に困難で明快なその「幸福」に気づくかもしれません。万が一そんな奇跡的なことが起こったのであれば、あとはただそれを信じ、そして大切に感じてみてほしいものです。きっとこれは著者の願いでもあります。
あ、でもそうか…。だから人生はザンコクにも映るのか…(笑)
この本は一体誰に向けて書かれたのか?
いやはや、この本は「人生論」と謳っているだけに、完全に人生に迷える一般の方向けの本なんだと思っていたら、どうやらそれだけではないのではないかと思えてきた。
というよりも一般の方向けの皮を被った、確信に裏打ちされた自己認識に関する遥かなる思索なのではないかとさえ時に思えたのです。つまり、過去の自分だったり、現在の自分だったり、「私」に関するありとあらゆることを徹底的に論理を使って、理性を働かせながら、ただただ自分と向かい合い真理を追い求めるモノローグ的な…。
でも不思議なんですよね。
当たり前なんですけど、この人には絶対になり得ないのに、この人がこの人自身を堀りに掘りまくっていくにつれて、段々とこの人との距離は近づいていって、気づいたら身近に感じることだってあるんですから。
そういう意味では、著者の語りを通じで、自分事としての「私」の人生と向き合う契機にもなり得るため、主に人生を残酷だと、自分を不幸だと思っておられる方や人生を自信満々に生きている方、哲学するのが趣味の方向けの書籍でもあるのかしらと感じた次第でございます。
あらやだ。なんか口調が変わってきたのを感じ取り始めたので、ここいらで、この問いに対する解については一旦終わろうと思います。ほなさいなら~。
感想
最初に本書を読み始めた時、筆者に抱いた印象は、「何かと闘っている」「何かを証明しようとしている」「何かを探し求めている」、そんな印象であった。それは最後まで変わらなかったが、それでも「自分が今この生に臨んでいる」とはどういうことなのか、ということを著者の実体験や実感を基に最後まで赤裸々に語りかけてくれていたと思う。
特に著者は、極めて論理的に考えているが故に、その論理の限界もまざまざと実感しており、論理への諦め(ここで言う「諦め」とは原義的な意味での「諦め」ではあるが)を内包しつつも、人生を肯定も否定もしないことによって、肯定しようとする挑戦的な営みは、最後には感動を覚えずにはいられなかった。
「考えること≒疑うこと」
と
「感じること≒信じること」
は必ずしも互いに相反するものではないし、むしろ相互補完的な関係であることを精緻な論理と著者自身の日常的な独特な感覚を通じて、見事に明らかにしている。
もしも筆者がご存命であったなら、一度は会って直接色々質問してみたかったなと切に感じた。
個性が個性として輝いていて、「その人がその人になる」という1つの姿を「魂」という言葉で教えてくれたことに感謝の意を表したいと思います。
もちろん著者の言う、「形式」という観点から著者の語りを捉えようとすると、その思想的基盤に関してはいささか時代を感じさせる点もなくはなかったが、それでも学ぶべきことは多分にあると言えると思う。
最後に、不躾ながらこの本のタイトルを改変することをもしも許されるとしたならば、筆者の言葉や想いも借りてこう名付けることになるでしょう。
「残酷人生幸福論(仮)」
紹介者:熊谷
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