選書紹介『それでも人生にイエスと言う』

今週のでこぼこ選書は心理学界隈では超有名な1冊である

『それでも人生にイエスと言う』です。

人生を前向きに生きるために大切なこと

いきなり自己啓発っぽい見出しで恐縮ですが・・・(笑)。

皆さんの中に「生きる意味とは何か?」と疑問に思ったことがある人はいないでしょうか?

また「死にたい」と思ったことのある人はいるでしょうか?

ある調査によると「死にたい」いわゆる「希死念慮」を抱く人は15歳~29歳の中で、

およそ2人に1人いると言われているそうです。

人生に苦しみ、絶望し、生きている事が辛くなり、死にたくなる。

それは裏を返せば、愚直にも真っ直ぐと幸せを願い、そして本当は楽しく生きたいと誰よりも強く願っているからこそ、「命の意味」を考えてしまうのかもしれません。


このように、生きていると何かに対して疑問に思ったり、問うたりすることはよくあると思います。

そしてこの「問い」は、時に人を育て、時に人を迷わせます。

この違いはどこにあるのでしょうか?

それは実のところ「問い方」によるところが多いのではないかと私は考えています。

例えば、夏休みの宿題で作文の課題が出ているとします。

ある生徒はその課題に苦戦しています。

この時に「なぜこんな課題があるのか?」という問い方と

「どうしたら上手く書けるのか」という問い方をした場合、

恐らくその後の結果に違いがありそうな感じがするかと思います。

課題を提出しなければいけないという絶対的な条件があるなら、

前者の問い方は多分地獄です(笑)。

だって一向に歩みを進めるための問いにはなりにくいですからね。

課題を乗り越えるための問いとしては、前者は心もとないわけです。

どちらかというと課題から目を逸らすための問いにも思え、あまり結果に対してポジティブな作用がある気はしません。

このように、「問い方」はある困難に対応するためにはとても重要な力があると言えるかと思います。

要するにある課題に対して適切な「問い方」を設定できるかどうかは非常に大切なわけです。

そして本コラムの冒頭にでてきた「生きる意味とは何か?」という問いも当然、問い方が重要になりそうです。問い方次第では天国にも地獄にもなるかもしれません。

本書『それでも人生にイエスと言う』は、この生きる意味に対する「問い方」を当時の考え方から180°変えたと言っても過言ではない名著です。多分(笑)。


心理学界隈ではとても有名な本であり、著者であるヴィクトール・フランクルもまた、臨床心理学の世界において非常に有名な人物です。

私の知人にフランクル研究の専門家がいるので変なことは言えないのですが、

彼は第二次世界大戦中に、強制収容所に収容され、一人の人間として、そして一人の精神科医として、あの過酷な収容体験を生き延びた人物として有名です。

一般の方には、もう一つの名著である『夜と霧』(収容体験について克明に記されています)でその名前を知っている方も多いかと思います。


本書『それでも人生にイエスと言う』は、収容所において、1杯のスープの価値にも満たないような扱いを受け続けた苛烈な体験の中でも尚、「人間としての尊厳」や「生きる意味」、どんな人生にも価値があると断言してくれる、とても力強いメッセージと考え方が散らばっている本です。

そして、困難に立ち向かう私たちを時に励まし、そして時に鋭い指摘を交えながらも肯定してくれる希望の書となっています。

では彼はどんな風に「生きる意味」に対して違った視点で問うていたのでしょうか。
その「問い方」について簡単にですが紹介してみたいと思います。

「生きる意味」のコペルニクス的転回

私たちは普通、「生きる意味とは何か?」という問い方をします。

しかしフランクルからすると実はその問い方は誤りだと言います。

なぜなら、生きる意味を問うのは私たち人間ではなく、「人生こそがそのことを私たちに問うている」からだと言うのです。


ん?どういうことでしょうか?

私たちは一見、自らの人生を「生きている」と錯覚していますが、よく考えてみると、私たちは自力で生きているようでいて「生かされている」という側面も多々あるのではないでしょうか?

例えば、多くの事柄、学校でもサービスでも国でもスポーツでも制度でも、私たちが生まれるずっと前からこれらは存在しています。これらを選び利用しているのはもちろん私たち人間ですが、しかしほとんどの人にとっては、「選ばされている」という見方の方が実際的には正しいのかもしれません。働くことにおいても、働きたくて働いている人ってどのくらいいるのでしょうか・・・。

私たちは数ある選択肢の中から何かを選んではいますが、選択肢という枠組みそのものを相対化して、その選択肢自体から距離をとったり、拒絶したり、組み替えたりといったことはほとんどの人にとっては出来ません。というかそもそもしようとも思いません。それは人生とはこういうものだ、という社会的な常識や制約が根強く存在しているからかもしれません。

この事から、自らの意志で何かを選んでいるようでいて、実は既にある選択肢の中から消去法的に選ばされているだけという側面もあるのではないでしょうか。

また今の選択肢の話に限らず、この社会は目に見えない「誰か」の働きのおかげで成り立っている部分が多いかと思います。

そして仮にその「誰か」がいなくなってしまうと私たちの生活は、今以上にままならなくなる可能性が大きいわけで、それは言い換えると、私たちは「誰かを支え、そして誰かに支えられて生きている」と言えます。

つまり、私たちは自分たちで生きているようでいて、同じくらい実は生かされている部分も多分にあるわけです。

フランクルの「生きる意味」に対する問い方

ここで「生きる意味とは何か?」という問いに戻りますが、

このよくある問い方は、いわば「私たちは自分の意志で生きている」という前提から生まれた問いに当たるかと思います。なぜなら、この問い方は、人間がこの問いを生み出す側として存在しているからです。
自分が自分の意志で生きていると感じているからこそ、「なんで〇〇なんだ」と半ば上から目線で、かつ批判的で、半分他人事?のように問えるわけです。

しかしながら、この問い方だけでは苦しみは解決されない場合もあります。


そこでフランクルは、別の問い方、つまり、「私たちは生かされている」という前提から生まれる問い、「むしろ人生が私たちに何を問うているのか」という、ある種、人間が受け身になる問い方に根本的にシフトさせたんだと、個人的には考えております。

前述の「人生こそがそのことを私たちに問うている」とは、要するに、

私たちは人生から出される数多の課題に「どう応えるのか」という点に意識を向ける必要性がある、というメッセージを暗に含んでいるんだと思います。


私たちが問いを生み出しているのではなく、人生が問いを生み出し、そして私たちはどこまでいってもその問いに「どう応えるのか」ということが問われ続けているわけです。

なるほど。たしかにそう考えると過去も未来も関係なく「今、どう過ごすか?」が本当に大事なテーマになる訳です。

繰り返しにはなりますが、あくまで私たち人間は人生から問われ、そして答えをださなければならない存在なのだと、フランクルは言います。

生きることそのものが、何がしかを問われ続けているのです。


そしてそれは今を生きていることに責任を担うことに繋がる。フランクルはそう考えているようです。


じゃあそうしたら、次は「どうやって問いに応えるの?」

そもそも「問いってどんなものがあるの?」という疑問も湧いてきます。

もちろんフランクル先生はこれらの問いにも本書の中で回答を示してくれています。


そして最後には、上記のような論理的な観点だけでなく、自らの収容体験を引き合いにとても情緒的な観点からも「生きる意味」や「命の価値」について説得力を持って述べています。

残念ながら紙面の関係で上記については詳しく書けないのですが、是非人生に悩んでいる方、人生に希望を持ちすぎて困っている方は特に読んでみてください!(笑)

きっと新たな発見があると思います!

では今日も、人生からの贈り物を大切に受け取ってそれをどう生かすのかを考えて行動していきたいなと思います( ;∀;)






紹介者:熊谷



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