選書紹介「かわいい」論 / 四方田犬彦

本日ご紹介するのは、



「かわいい」論 / 四方田犬彦



「かわいい」の構造を様々な角度から分析した1冊です。





日本の「かわいい」は「kawaii」と称され、

今や世界を席巻する文化の一つにまでなっている印象を受けます。



本書『かわいい論』はおよそ15年前に出版された本ですが、

現代の「kawaii」文化を考察するための取っ掛かりとしても、非常に有効な作品なのかなと思います。



そんなアクチュアルな1冊なのですが、前置きはさておき、

今回のコラムでは、本書のなかから特に面白かった議論をピックアップしてご紹介させていただきます。

「かわいい」と「未熟さ」

筆者の四方田(よもた)さんは、日本的「かわいい」の本質に「未熟さ」があると主張します。

日本的「かわいい」の起源

日本文化には元来、「未熟なもの」を肯定的に受け止める伝統があったようです。

例えば、平安時代の作家・清少納言は、著書『枕草子』にて、

「幼げなもの」・「無邪気なもの」・「大人の庇護を必要とするもの」を「かわいいもの」として取り上げ、そこに特別な価値を見出しています。

ここから筆者は日本文化の伝統に、「未熟な存在」に価値を置き、
一つの「美」として肯定しようとする「美学」があったことを確認します。

現代における「かわいい」文化は、そんな日本文化の伝統に基づく「美学」を起源として誕生した!
と考えることができそうですね。

西洋との文化比較

一方、そういった「かわいい」の美学は、どうやら西洋の文化にはなかったようです。

例えば、西洋哲学の大家であるカントは、

「人間は教育を施されることで、はじめて人間になることができる」

「未成年の状態からとっとと抜け出すことが重要だ」みたいな言葉を遺しています。

すなわち、子どもは「未熟な」・「未完成な」存在であり、未だ「人間」にあらず、
「成熟した」・「完全な」大人になるまでの段階に過ぎないと位置づけられていたようです。

「未熟さ」に特別な価値を置く日本とは、まるで前提が違うことがわかります。



またそれゆえ英語には、日本語の「かわいい」に当てはまる訳語がないようです。

例えば、英語の"cute"は、一見「かわいい」と日本語訳されがちですが、

当初は「利口な」「気が利いた」という意味合いを持っていたようです。

その語源を辿ると、"acute"(鋭さ)やラテン語の"acutus"(知的な聡明さ)に当たるとか。

また"pretty"も、当初は「ずるい」・「利口な」・「立派な」といった意味合いだったのが、

今の「かわいい」的なものに転じたようです。

つまり英語圏では、「かわいい」なるものが「未熟さ」というよりも、
「賢さ」・「利口さ」といった一つの「成熟さ」から出発していたんですね。

そのためにニュアンスが異なり、翻訳にも少なからずズレが生じるみたいです。

このあたりの文化比較、大変興味深いです。

「かわいい」と「グロテスク」の隣接

興味深いことに、筆者は「かわいい」と「グロテスク」が隣接するものであると主張します。

本書ではその両者の関係を考察すべく、広く「かわいい」ものの典型とみなされている「七人の子人」や「E.T.」、「トトロ」の存在を例に挙げ、その実態に迫ります。

以下は筆者による彼らへの辛辣なコメントです。

「異常なまでに巨大な両眼。頭部と比較して不均衡なまでに短い足。毛髪をもたず瘦せ細った動体。彼らをおしなべて特徴づけているのは、身体的な欠落である。」

「現実に自分の家の庭先に七人の小人やE.T.、トトロが突然に出現したとしたら、われわれはそのグロテスクな姿に仰天して、逃げだすか、警察を呼ぶことになるだろう。

〔中略〕

トトロにしたところで、もし日本の住宅地に本当に出現したならば、人間に危害を加える正体不明の動物ということで、近隣住民から駆除申し立てが出ること必定である。」

『かわいい論』 四方田犬彦、ちくま新書、2006、82頁。



かわいそう😢

でもたしかに筆者の言う通り、至極冷淡に彼らのフォルムを眺めてみると、

果たして「かわいい」のか「気持ち悪い」のか、なんだかよく分からなくなってきます。



また筆者は「赤ちゃん」や「ペット」を例に挙げ、そうした存在の実態が純粋に「かわいい」だけではないこと、

臭いや騒音など、むしろ「かわいい」が保証する「清潔さ」「心地のよさ」とは縁遠い一面を備えていることを指摘します。




ではそんな異形のもの・不気味なものたちが、なぜ「親しげ」「心地のよい」存在として認められているのか。

それは、そこに「かわいい」という「虚構の枠組み」が生み出されるからだと筆者は主張します。

「かわいい」と「グロテスク」は、薄い一枚の「観念の膜」によって隔てられ、

その「膜」によって保護されているがゆえに、「かわいい」は「親しげ」「心地のよい」ものとして認められ、

その「膜」の外に位置づけられるために、「グロテスク」は「不安」「不快」をもたらすものとして忌避されることになる。


そして「かわいい」と「グロテスク」を隔てた境界に生じる「きもかわ」は、

まさに「かわいい」の本質が露わになった状態である、というのが筆者の主張です。


呪文っぽく言うならば、「かわいい」は不都合な「他者性」を隠ぺいし、

理想化された内面的なユートピアに閉じこもるための戦略なのかもしれません。


また筆者は「かわいい」と「グロテスク」を隔てる「観念の膜」が破損したとき、

観念と現実とのズレによってパニックに陥ることで、子殺しやペット遺棄など、痛ましい事件が起こると分析しています。

個人的には当分析に納得をしつつも、その「観念の膜」が破損したときにこそ、

その存在をより深く愛する可能性の契機が現れるのではないかとも思います。

おわりに

やや抽象的なお話になりましたが、今回のコラムはここまでとさせていただけたらと思います。

本書には今回取り上げたテーマ以外にも、たくさんの論点が紹介されています。

「kawaii」文化に限らず、「エモい」「推し」など、昨今の文化言語を分析する上でも、

何かヒントになる論点があるのではと、書き進めていくなかでぼんやり思いました。

ご関心のある方は、ぜひ一度手に取ってみてください。



追伸

実は当コラム、当初は『かわいい論』をもとに「ちいかわ」の人気の秘密を探る、

いうなれば「ちいかわ論」になる予定でした。

四方田さんのプリクラと「ちいかわ」たち


筆が進まずに断念してしまったのですが、「ちいかわ論」につきましては今後の課題として、またの機会に考えてみたいと思います。





紹介者:吉田



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